2005.8.21.の説教より

.「 他人の目と自由 」
ル カによる福音書 21章1−4節

 普通、このところは、3・4節となりますが、イエス様が「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」と言われて、この貧しいやもめの婦人がしたことを称賛されたことから、私たちが神様に何かを献げる場合の、特に献金する場合の模範として受け止められていることが多いのでは聖書の箇所となっています。確かに、このやもめの婦人は、他の人たちのように、有り余る中からというのではなく、生活費の全部を、それも、「乏しい中から」というのですから、これ以上の献げ物はないということになのますので、神様に何かを献げる場合の模範として受け止められるというのも当然と言えば当然のことかもしれません。ただ、この貧しいやもめの婦人の話というのは、私たちの現実の生活との関わりで考えますとき、とうてい考えられないこと、現実的ではないこととなるのではないでしょうか。なぜなら、生活費の全部を神様に献げることなどできないからです。たとえ、食べ物の多くを畑や田んぼで作って自給自足の生活をすることができたとしても、お金がなければ衣類やその他の物を手に入れることができませんし、病気をしたときに医者にかかることもできないからです。そんなことを、この貧しいやもめの婦人の話を聞いたり、読んだりするときに思ってしまうものですから、正直、私などは、神様に何かを献げる場合の模範として受け止めるよりも先に、この貧しいやもめの婦人は、その後、どうされたのだろうか、ということのほうが心配になりますし、考えてしまうわけです。今の時代とは違って、生き別れか死に別れか分かりませんが、やもめの婦人として、一人で生きて行くというのは、ほんとうにたいへんなことだったのではないでしょうか。
 旧約聖書の中に、ルツ記というのがありますが、そのルツ記のルツなども、夫に先立たれ、姑と共に、姑の郷里に帰って来て生活をすることになるのですが、郷里に戻って来てからしていたことはと言えば、収穫の際に、畑にこぼれ落ちたような物を拾って、まさに、落ち穂拾いということになりますが、そのようにして貧しく生活せざるを得ない境遇へと追いやられて生活をしていたわけです。ただ、この当時は、今の時代のような福祉の制度は整ってはおりませんでしたので、その代わりと言えるかどうかは分かりませんが、落ち穂拾いをして生活をしなければならない人たちのために、落ち穂が畑にこぼれ落ちるようにするとか、収穫の際に、きれいに全部刈り取ってしまわないようにするとかいったことが定められていたようですが、それでも、やもめの婦人たちの生活というのは、ほんとうにたいへんなものだったのではないでしょうか。ましてや、現金を手に入れることなど、そうそうできることではなかったのではないでしょうか。このところで、この貧しいやもめの婦人が賽銭箱に入れたレプトン銅貨二枚が、この婦人の生活費の全部であったとことなどは、まさに、そうしたやもめの婦人の生活のたいへんさを語っているのではないでしょうか。なぜなら、レプトン銅貨というのは、この当時の貨幣の単位としては、最低のものだったからです。しかも、そのレプトン銅貨二枚が、この婦人の全財産だったというのですから、その貧しさというのも、容易に想像がつくのではないでしょうか。おそらくは、そのような貨幣としては最低の単位のレプトン銅貨でさえも、このやもめの婦人にとっては、そうそう手にすることができるようなものではなかったかもしれません。
 そうしたことから考えますとき、このやもめの婦人が、神殿に来る度に、賽銭箱に自分の全財産を入れていたというのではなかったのではないでしょうか。そうではなく、その日は、彼女にとっては、何か特別のことがあったから、特別の日だったから、その時、持っていた彼女にとっての全財産を賽銭箱に入れたのではないか、というふうにも考えられるのです。彼女にとっても、それは、日常的なことではなく、非日常的なことだったのではないでしょうか。そうだからと言って、このやもめの婦人の神様への献げものには、私たちとして学ぶべきものがないとは言えないのではないでしょうか。たとえ、非日常的だからと言って、そうそう全財産を神様に献げてしまうことなどできないからです。
 ところで、この貧しいやもめの婦人の話ですが、この話が、どういう一連のことがらの中で語られているかを見てみますとき、律法学者たちがイエス様の言葉じりを捕らえ、イエス様を陥れるための手がかりを見つけようとして、あれこれと次々と質問したことに対して、「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」とイエス様が言われたことに、まさに、続くようにこのやもめの婦人の話は語られているわけです。つまり、内面的なあり方を問題とするよりも、人から良く見られること、評価されることをこそ求めて、長い衣をまとって歩き回ったり、見せかけの長いお祈りをしている律法学者たちと、ちょうど対照的な人たちの一人として貧しいやもめの婦人の話が語られているわけです。しかし、考えてみますと、内面的なあり方を問題とするよりも、人から良く見られること、評価されることをこそ求めるというのは、律法学者たちだけのことではないのではないでしょうか。私たちでも、少なからず人目を気にするところがありますし、人から良く見られることや評価されることを願って知らず知らずのうちに立ち振る舞っているところがあるのではないでしょうか。ついついカッコをつけてしまうことがあるのではないでしょうか。できるだけ自分を大きく見せようとすることもあるのではないでしょうか。
 よく律法学者たちのような人たちのことを「偽善者」という言い方をしますが、「偽善者」と言いますと、「偽りの善人」「偽りの善行を行っている人」という意味で受け止められているのではないかと思われますが、もともとの意味合いはと言いますと、そうした何か悪いところを持った人というよりは、役者のように演ずる者だということです。そのように、「偽善者」というのが、役者のように演ずる者だとするなら、私たちも、少なくとも、わたしなどは「偽善者」と言われても、仕方がない者となると思っています。人の目を気にし、自分を大きく見せようとしているところがあるからです。しかし、そうだからと言って、そのことをもってして悪いということは言えないのではないかと思われますが、人の目を気にし、自分を大きく見せようとしてというのは、やはり、どこか窮屈なあり方となるのではないでしょうか。
 それに対して、このやもめの婦人はと言いますと、そういう人目を気にしてというところが無いように見受けられるのです。まったくそういうことから自由な者として振る舞っているようにです。どうして、そのようなことができたのかは分かりませんが、ただただ神様のほうにだけ心を向けて立ち振る舞っているように思われるのです。彼女の貧しさのゆえに、そうすることができたということも考えられないこともありませんが、「貧すれば鈍する」という言葉もありますように、貧しいからと言ってそうすることができる、心から神様のほうにだけを心を向けて立ち振る舞うことができるとはかぎらないのではないでしょうか。むしろ、そうしたことよりも、神様に心から信頼を寄せていたことが、神様に頼って生きる心を持っていたことが、彼女をして「乏しい中から持っている生活費を全部入れる」ことができる者と、それも、人の目を気にせずにそうすることができる者としたのではないかと考えられるのです。また、そうしたやもめの婦人の立ち振る舞いだけでなく、神様への信頼をご覧になられたからこそ、彼女の内面的なところをもご覧になられたからこそ、それも、律法学者たちには見られないものをご覧になられたからこそ、やもめの婦人を称賛されたのではないかと考えられるのです。「乏しい中から持っている生活費を全部入れた」ということだけで、イエス様は称賛されたのではないと考えられるのです。「神様への信頼は、精神の自由、心の自由をもたらす。」と言われていますが、まさに、この貧しいやもめの婦人こそは、その自由を持っていたのかもしれません。そうだからと言って、このやもめの婦人が、神様の御前に、非の打ちどころのない人であったということではなく、イエス様が、この時、神殿において献げものをする彼女の中に、心から神様に信頼して生きて行こうとする思いを見てくださったということではないでしょうか。信仰があるとは言えないような私たちの現実の生活の中に、信仰を見てくださるように見てくださったということではないか、と考えられるのです。いずれにせよ、人目を気にしてというのではない自由を、もう少し持つことができるならばと願うものです。